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この項目だけはちょっと文体が変わるのです。
いささか真面目な事柄を書かねばならないので御了承を。
それも書き散らすだけ書き散らしているだけなので。
そして時々推敲する予定です。
何度も何度も、もう一度考えたりする予定です。



クドリャフカ (Kudryavka)


これが我が家の犬の名前である。
長毛種のチワワ。
本人が「くー」「クドさん」等々の略称でしか、
自分を理解していないのはちょっと問題ではあるのだけれど、
元々、
「犬って呼ばれるときはたいてい略称愛称なんだから、
 本名は難しくていいや」
という方針での命名なので、今のところ格段の問題はない。

kuddy02.jpg

世田谷公園の山の上から、ある日の夕方キャロットタワーを望む。








さて、
普段わたしたちが、何気なく美しいと感じる自然の事象について。
例えば夕焼けは、よくよく考えるととても科学的な現象であり、
大気や水蒸気、光の屈折や反射というような
あたかも掌上の三千世界とでも言うべき微細な世界の科学から、
それらが複雑に、時には極シンプルに絡み合って生成されている、
地球と太陽、大気圏、そして宇宙、といった、
およそ個人の存在や思考の枠内すら超えた、
まるで「世界の道理」とでも名づけたいような科学の歯車が上手に作用して、
自動織機で織り上げられる長大な布のように、全てが絡みながら、
でも単純に、夕日がこんなにも美しいと感じる。
不思議なことだと思う。

なにかを「美しい」と思えること。

その感情の流れ方すらもいつか究明されて、科学の道理に含まれるのだろうか。
寂しいと思うより先に個人的には、
じゃあいつか究明されるならばとっとと究明されてしまって、
それを知った上ですっきりしたいものだとも思う。


しかしながら、学問としての三千世界の道理の追求は、
(怠惰な決意ながら)科学の求道者に任せっぱなしにしておきたいと思う。
雲や空や風のことを感じるだけの”ただの人”、
そんな気楽な立場の自分からは、
「”人は、それら科学事象を感情で美しいと感じる”、
 そのことすらも不思議だね」と、
知を忘れたような呆け顔で感嘆するしかできない。


そんな自分にも理解できることがある。それは、
夕日自身は自分を美しいなどとは思っていないであろうこと。


apollo17.jpg

昔、NASAのHPだかで拾ったアポロ○号の、母船のほうの画像。


人類史上もっとも遠くまで旅した人間とは、
かのアポロミッションで月の裏を周回した人々である、とされている。
あれはもう遥か昔と言っていい、
1960年代から70年代にかけてのこと。
逆に言えば、それ以前もそれ以後も、月より遠くに行った人間はいない。

しかしそれ以降、人類全体の宇宙旅行熱はなにやら冷めてしまったようで。


国家経済的な、あるいは不幸な事故、その他諸々の理由を含めても、
近年の人類ときたら地球の周りをくるくる回っているだけである。
スペースシャトルなんてのは、大気圏のほんの外側を回っているだけであり、
宇宙の大きさから見ればこんなものは
「地上から全く離れていない・地表をスライドして遊んでいるだけも同然」
と言われてもしょうがないくらいなのである。
人はどこまでも進んでいくからこそ人であるのに、なんだかサボり気味である。
と、あくまで”ただの人”の自分が言う。

それでも「人は地上を離れて空を飛び、地球を離れて宇宙を飛んだ」
これはとにかく事実であり、
人類が、叡智の追求の末に素晴らしい技術を取得し、
未知なる一歩に果敢に進撃した歴史、
それぞれが記念碑であることには違いはない。

余談になりますが、
現在明らかになっているようなお話や資料で、
当時のアポロ計画なんてのをかいつまんで知ると
「よくぞこんな無茶をしてまで月までいこうと思ったもんだ…。
 っていうか乗ってった奴、よくこの話に乗ったね…。」
と、どちらかというと彼らの蛮勇のようなものを感じて、呆れ感嘆してしまう。
だってあなた!40年前の技術で、月まで行きたいと思いますか?



未踏域に切り込む科学技術の冒険には、犠牲が伴うことがままあるもので。
アポロ計画でも、旧ソ連側の計画でも、多数の人的犠牲が発生している。
そしてそれ以前の段階で、動物の犠牲が発生している。
それはいわゆる、科学の発展の各所に無数に行われている、
”人的被害を最小限に抑えるための動物実験”と呼ばれるもの。


人が宇宙への道を獲得する過程で、最も有名になった犬がいる。
「宇宙犬」などと言われて世界的に知られることになった「ライカ」、
本名「クドリャフカ」と呼ばれた犬のことである。

laika.jpg
写真はどこかで拾ったもので、出展がよくわからない。
この犬およびそのミッションについては、
つい感情的になりがちな論説が多いので、
wikipediaの以下の項目を挙げておく。
平易で詳しいと思う。
ここで再度、拙く説明する愚はないっしょ。

wikipedia「ライカ」


悲しい話だと言えば悲しい話。


でも、動物実験の是非やクドリャフカの運命について、
感想を垂れ流したり、
とやかく批判したりできる立ち位置に自分はいない。

なぜならば、自分は彼らの作った未来を歩いている存在だから。
ありとあらゆる動物実験あるいは人的犠牲を含めた、
損害を土台にした科学文明の歴史の上に「現在」があり、
現在、直接ないしは間接的になにかしら、その恩恵を受けている以上、
無言でその命に感謝する以外、なにも語る言葉なんかない。

脱線気味に話を転がすなら、
自分はこの犬の命だけに、
ことさら感情的な反応をすることもできないような気がする。
詭弁でしかないが、
世界にはもっと悲しい出来事が積み上げられていて、
こんな過去の犬のことを考える余裕もない場合もある。
では自分個人に考える余裕があるからといって、
じゃあそれで自分だけがただ、感傷的になる、
それも傲慢というか、不遜ではないかと思う。
なんと言っていいか、
科学や文明の素晴らしさの前に、「でも」と言えない自分がいる。
そんな微細が極まったような”ただの人”、簡単に言うならチンケな自分には、
"人類は生きていくうえで、どうしても業を重ねるものだ"
と、その一点を開き直りながら諦めるしかできない。
業であろうか、罪であろうか、
とにかく全てを背負って、それでも人は未来に向かって
毅然と立ち挑んでいかないといけないのだと思う。
(無論、「動物実験」に替わるなにかがあれば、それが理想ではあるけれど)
そうしたくないから立ち止まってもいい。そんなわけがない。
先人たちが切り開いた道を歩いている以上、
現在の”ただの人”すらも荒野を開拓し、歩き続ける義務があると思う。
次の未来のために。

美しい、と。悲しい、と。
なにかにつけて涙が流れても、
それを拭わないでひたすら歩き続ける以外、よい方法を思いつかない。
ずるいほど幸いなことは、人類が全て共犯者である、という点。




kuddy04.jpg

そんなことはどうでもよくって、
この自家製アップルパイは全部ぼくのものだと勘違いして喜んでいるクドさん。


我が家に犬がやってきた。
あえてこの犬に「クドリャフカ」と命名した。
事情を知っている人からは
「なぜそんな”かわいそうな名前”を?」と聞かれることがある。

前述のように自分は「かわいそう」と言いたいけれど歯を食いしばって「言わない」。
その上で、
動物実験などの「是非」を論じることはさておき、
その「宇宙に行った最初の動物」の名前は、
人類の科学史および人と犬との長い長い歴史に、
燦然と輝く記念碑的な名前であることは間違いないから。

その上で、

せめて”我が家のクドリャフカ”には、ほどほどに楽しく、なかなかに気楽に、
天寿を全うするまで生きていて欲しい。生きさせてやろう、という気持ちから、
この犬は「クドリャフカ」と呼ばれることになった。

kuddy03.jpg

そんな気持ちを一切知らず、人のベッドで楽しく眠るクドさん。4ヶ月頃。


長々と書いたのはいいが、実は人間の側でも整理し切れていないから。
いろいろと矛盾のような、すっとしない感情を持っている。

自分の飼い犬を天寿までより良く飼育する。それは当たり前のことであり、
いまさら気合を入れる必要もないこと。
うちの犬が幸せだろうが楽しかろうが、
そんなことは初代クドリャフカになんの損得もないことだって理解できる。

知っているのになぜそんな、ということは、
自分はまだどことなく業や罪について考えているのでは、
と思うこともいまさらながら。

贖罪ですか?人類代表にでもなったつもり?と自分に向かって問うてみたり、
そうしていまさら逡巡することすらも、人の業なのだろうな、
これもいつか科学が解決するのだろうか、と思案が回り。




はい私の筆力では、現在ここまで。



kuddy01.jpg

そんなことは露知らず、東京で飼われるとも思ってない、
香川県での生後3ヶ月頃のクドさん。
既に達観顔…。










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